加藤賢一 データセンター

保江(やすえ)邦夫著「ヒルベルト空間論」 

日本評論社、2000年

定価2200円

 天文学科を卒業し、大学院では素粒子理論を専攻し、今や数理物理学や脳機能を研究しているという著者の多彩な一面を覗かせてくれる数理物理学方法序説シリーズ全8巻の第2巻目。『高校から大学初年級程度の読者を想定し、…』と宣伝文句にあるが、想定された人たちでこれを読みこなせたら、将来、物理で飯が食えることは確実である。

 著者は、本書の「はじめに」で、学生時代に初めてヒルベルト空間論に接した時のことを紹介しているが、それを講じていた鶴丸孝司先生には私もショックを受けた一人である。教養部があった時代で、入試を終えて入学した学生たちはそこでは少しゆとりを感じていた。当時の教養部は、まだ大学紛争の余波で騒然としており、「ゆとり」のある学生が勉強しようと感じる雰囲気ではなかった。そんな中で、鶴丸先生が一般教養の学生(!)を相手に講じられたのが「ヒルベルト空間論」であった。ノルム空間、バナッハ空間、等々、次々とわけの分らぬ概念を、真面目に、真剣に、紹介し続けてくれた。
 何だ、これは!本当に教養部の数学か?!1年目で一応εδ法などの洗礼を受け、徐々に高校数学から大学の数学に浸り出した頃であったが、ガツーンと脳天に一撃を食らわされた感じだった。
 相手は、必ずしも数学科の学生ではないし、筆者のようにほとんど理解できない者がたくさんいたに違いない。しかし、不思議なことに、出席率は高かった。講義の魅力は何だったのだろうか、と改めて思う。おもしろおかしい話をするわけでもなく、決して分りやすく紹介してくれたとも思えないが、少なくとも、できの悪い学生にも、分らなくても聞いてみたいという気を起こさせたことは確かである。思うにそれは、「ヒルベルト空間論」は鶴丸先生の世界であり、彼が心からそれを楽しんでいること、それを真面目に学生に伝えようとしたことなどができの悪い学生にも伝わったからではなかろうか。
 私は、保江氏のように理解できたわけでもなく、それを面白いとも思えなかったが、そういう世界があることだけは分った。そして、魅力的な講義とは、決して学生におもねることではないことも分った。鶴丸先生の講義は学生との真剣勝負だったのかも知れない。いやはや、大学とは、げに恐ろしい所であると、今、改めて思う。

 という次第で、「はじめに」と「おわりに」しか読んでいないが、著者の保江氏は、これを「キセル読み」と表現していた。宣伝文に『「易しく分りやすい」解説に飽き足らない骨のある読者を求む』とあるとおりの内容であり、これから『勉強するぞ』と真剣に考えている人におすすめ。

【補:ショックー2】
 教養部の講義で受けたもう一つのショックは、1年生対象(一応理系ではあったが)の一般教養の化学の時間。尼子先生はいきなり、シュレーディンガー方程式から入った。ただ、びっくり!入学したての学生には理解不可能な量子化学の世界が展開されていた。ポテンシャルの概念はおろか、偏微分も、複素関数もさっぱりの1年生に、であった。おかげで、「化学は試験管とビーカーの世界」という概念を変えることはできたが、内容は霧中状態だった。